あたたかな場所
『人に関心がないんでしょ!』
ヒステリックな女の声が、今も耳に残る。
そんなことはないと叫びたくても、喉はカラカラに渇いていて、声が出なかった。
バチンッ!
と、大きな音を立てて、女は目に涙を溜めながら、俺の頬をはたいた。
『バカッ!!』
そういい捨てて、女はハイヒールで駆けて行った。
あの女の名前は、なんていったのか……。
そんなことすら思い出せないのに、声だけが耳にこびりついて離れない。それは時折、感傷的に俺を苛む。
『いい子ね』
母はそう言って、俺の頭をなでてくれた。
母が喜んでくれるならと、何でも出来るように頑張った。
でも、周りはいつの間にか、俺がなんでもすることが当たり前だと思っていた。
出来ないなんて、言えなくなった。
完璧じゃないと、誰からも認められないような気がした。
……呼吸が、しににくくなったような気がした。
「セバスチャン?」
ヨハンに話し掛けられて、我に返った。
「随分お疲れの様子ですね。大丈夫ですか?」
ニコニコと人当たりのいい笑顔に、少しだけ心配げなヨハンがいた。
「すいません。大丈夫です」
書類に目をやれば、全然進んでいない。コーヒーに手を伸ばすと、冷たくなっていた。眉を顰めながら、口に含んだ。微妙な冷たさが、コーヒーの酸味だけを強調していて不味かった。
「紅茶を入れてきましょう。リクエストはありますかな?」
俺はよっぽとしかめっ面でもしていたのだろうか…。そう思いつつ、ヨハンを見るとニコニコと温かな笑みを浮かべて、返事を待っていた。
「…おまかせします」
「では、ダージリンにしましょう。ファーストフラッシュのいい茶葉が手に入ったのですよ」
そう言って、ヨハンはお茶のしたくをはじめた。
もとから俺の分も入れてくれるつもりだったのだろうか…。茶器が二人分、用意してあった。それから、何種類かの紅茶の缶。その缶のほとんどが、俺がよく飲んでいる茶葉の缶だった。
「スコーンも召し上がりますか?アプリコットジャムがあるのですよ」
ポットにお湯を注ぎ、かわいらしいキルトのポットカバーをかぶせた。砂時計をセットしてから、ヨハンは小さなバスケットをテーブルに置いた。
小さなバスケットの中には、かわいらしく型抜きをされたスコーン。十中八苦、ヨハンが作ってくれたものだろう。
それから、小さなガラスの器に盛られたクロテッドクリームと、アプリコットジャム。
「ありがとうございます。是非」
ヨハンはにっこりと笑って、白い皿に星やハート、クローバーの型抜きをしたスコーンをのせた。香ばしい香りのするスコーンは、どうやら焼き立てらしい。
それから、クロテッドクリームとアプリコットジャムを、たっぷり盛り付ける。
仕上げは、シャベルの形をしているスプーンをのせてくれた。
このスプーンが出てくるということは、ヨハンの私物のほうの茶器である。
丁度、砂時計の砂が全部落ちた。
ティーカップにティーストレーナーをセットして、ティーポットのかぶせていたポットカバーを外す。紅茶は熱くしないとダメなのだと、俺は昔、ヨハンに教えてもらったのだ。そして、流れるような動作で、紅茶を注ぐ。
あたたかみのあるかわいらしいモチーフが描かれた茶器は、そのままヨハンの温かい人柄を表しているようだった。
「お口にあいますかな」
そっと差し出されたティーカップには、澄んだキレイな色のダージリン。香り立つダージリンの特徴であるマスカットフレーバーが、ぼんやりとしていた脳に染み渡っ
ていった。
「ありがとうございます」
礼を言うと、ヨハンはいっそう笑みを濃くして、自身も紅茶を持ってイスについた。
「いただきます」
「どうぞ」
軽く会釈して、口に含んだ。
「……」
やさしい味が、口の中に広がった。包み込むように香るマスカットフレーバーが、まるでヨハンのようだと思った。
さすがはファーストフラッシュというべきか。しっかりとしたダージリンの味と共に、常にないやわらかさがあった。
「お口に合いましたかな?」
自身も一口飲んで、深く頷いてから、ヨハンが声をかけてきた。
「ええ。香りがすばらしいですね。さすがはヨハン」
自然と顔がほころんだ。
ヨハンが目を細めて、うれしそうに頷いた。
「ジャムは恒例の女史のアプリコットジャムなのですよ」
この時期、マイヤー先生は毎年、アプリコットジャムを作る。丁寧に作られた甘酸っぱいジャムは、招かれていくお茶会でも好評だと聞く。
ニコニコとスコーンを勧めるヨハンに、微笑み返して、スコーンを手にとった。
あたたかいスコーンに、クロテッドクリームをたっぷりつけて、アプリコットジャムもたっぷりつけた。
サク。と、軽い食感がして、クロテッドクリームのこってりした濃厚な味と、アプリコットジャムのさわやかな酸味が口の中に広がった。
懐かしい味だった。
ここにきた当初は、やはり完璧でなくてはいけないと、がむしゃらに頑張っていた。
マイヤー先生もヨハンも何も言わなかった。
そんなある日、今日みたいにそっと、ヨハンがスコーンを焼いてくれて、マイヤー先生がジャムをもって来てくれて、おいしい紅茶を入れてくれた。
夢中になって食べて、ふと仰ぎ見た二人は、ニコニコと笑っていた。いままでにない反応で、びっくりした。背伸びしなくても、完璧じゃなくてもいいと、言葉だけで
なく態度で示してくれて、余分な肩の力が抜けた。
気が付けば、呼吸が楽に出来るようになっていた。
「おいしいですね」
そう声をかけると、ヨハンがあの頃と変わらない、ニコニコと人好きのする笑顔を浮かべていた。
「それはよかった」
ふわっと、心地よい初夏の風が開けられたドアから入ってきた。
「失礼します」
入ってきたのは、書類を抱えたB。
「ご苦労さん。その書類は?」
「決済済みの分です。チェックをお願いします」
一抱えもある書類。まぁ、ゆっくりお茶をしてからでもかまわないだろう。
「すまんな。…B、ついでに休憩していけ。マイヤー女史のアプリコットジャムがある」
「スコーンもありますよ」
ヨハンが声をかけると、Bは目を輝かせてうなづいた。
「ありがとうございます。マイヤー女史の毎年恒例のですね」
ヨハンは5人分の人分の茶器を用意し始めた。訝しげに思っていると、あわただしくデイビットが入ってきた。
「ハニー。いるか?」
「なんだ?」
「そろそろ休憩時間だからな。今日はさわやかに、クランベリーのシャーベットを作ってみた」
時計を見ると、確かにほどよく休憩時間である。
「お疲れ様です」
Aとツネッテも来た。
「おう。A君にお嬢ちゃん、お疲れ。B君もお疲れさん」
「デイビットさん」
デイビットの背中に後光が差しているのか、羽が見えているのか知らないが、Aとツネッテは「癒される…」といってほろほろと涙を流していた。
「今日はにぎやかですね」
今日はお茶会がなかったのだろうか?マイヤー先生も、休憩室に現れた。意外と、ジャムの出来を気にしてやってきたのかもしれない。
「みなさん、お茶が入りましたよ」
ヨハンの和やかな声が、休憩室に響き渡った。
人が自然と集まるあたたかな場所には、いつも中心にはヨハンがいる。それはきっと、ヨハンの人柄だろう。
このあたたかさに、何度すくわれたことだろうか。
俺は一生、ヨハンと、そして厳しく指導をしてくれたマイヤー女史には頭が上がらないことだろう。
外を見ると、さわやかな初夏の空が広がっていた。
END
祝☆1000ヒット!
ご来訪くださった皆様のおかげで、ここまで来ることができました。本当にありがとうございました。これからも、どうぞよろしくお願いします。
ということで、感謝の気持ちをフリー小説で表してみました。
フリー期間は終了しました。ありがとう御座いました。
今回はセバ過去(捏造)と、ヨハンさんとお茶…(うっとり)。
ダージリンは紅茶の中ではダントツ有名ですよね。さわやかなマスカットフレーバーが特徴で、ストレートでいただきます。ファーストフラッシュとは、一番摘みの茶葉(春に摘んだものです)のこと。お茶の新芽が使われるので、メーカーさんにもよりますが、値段がゴンッと上がります。夏摘みのセカンドフラッシュやブレンドしたものと比べると、やさしい味がします。
ヨハンさんのスコーンは、ものすごく簡単にできます。イギリスのお菓子です。アフタヌーンティーの3段トレイの真ん中に乗ってます。紅茶の専門店では、だいたい置いていると思いますよ。かきじゅんは、これをクッキー型でぬいて、かわいらしく作ります。食べるときは一瞬ですけどね。
クロテッドクリームは濃厚でコテッとした、生クリームとバターの中間みたいなもの…といいましょうか…。うちは片田舎なもので、なかなか入手できなくって、あったら即買いです。
マイヤー・モリナガは意外と、手料理がうまそう…。バラのジャムとか、作ってそうだな…。といって、今回の設定に。秋にはヨハンさんと、アップルパイを作ってくれていたら最高ですっ!
私が書くと、食い物ネタが多いですね…。本人が食い意地が張っているからですね。きっと…。
06.7.14 かきじゅん