「お願いです。――――お願いです」

密やかで、けれど強い懇願の声が、豪奢な部屋に虚ろに響く。

美しい金の巻き毛を持った姫君が、傍らで、膝をついた彼女の騎士に向かって囁く。

「私は、政略のために、隣国の見知らぬ王に嫁ぐなど、できません。――――できないのです。
お願いです。お願いです。おねがいです――――我が騎士」

華奢な手が、震えながら、騎士の剣に触れる。

膝をついた騎士は、面を上げない。

彫像のように、反応をしめしてくれない騎士に、それでも姫君は言い募った。

「どうか、この身を引き裂いて下さい。その、何物をも断ち切る刃で。その、何物をも切り裂く腕で。
お願いです、我が騎士。…………おねがいです、わたくしを、」

つづく言葉を、騎士は容易に予測できたが、それを防ぐ手段をもっていなかった。

怯えるように、おののくように、けれど、若干の期待を滲ませて、姫君の言葉は零れた。

「ころしてください」

「…………姫君、」

堪りかねて声を押し出した騎士の、呼びかけに被せる形で、姫君が膝をつく。

臣下である騎士と同じように、膝を床につけ、彼女は縋るように、騎士の服を掴んだ。

豪華なドレスが、咎めるように短く、衣擦れの音をたてる。

「お願いです、お願いです、お願いです、我が騎士。
私は、嫁ぐことなどできません。嫁ぐわけにはいきません。
――――だって、私は、我が騎士を、貴方を、お慕いしているのです。貴方以外の男性と、生涯を共になど、歩けないのです」

はたはたと、宝石のような姫君の瞳から、真珠の涙が降りおち、騎士の服に染みた。

押さえがたいほどの愛おしさを、唇を噛みしめることで耐え、騎士は、そっと姫君の手を外す。

姫君の手が、落涙を止める為、顔を覆った。

「…………姫君、そのような滅多なことを、言ってはなりません。
貴女は、この国の姫。私はただの騎士に過ぎません。――――心を、通わせるなど、あってはならないのです」

「わかってます。わかっているのです。――――それでも、貴方を想う心を止める術を、私は持たないのです。
お願いです、我が騎士。お願いです。私を、」

その続きを、恐れるように、騎士が身じろぐ。

けれど、くぐもった姫君の願いは、あますところなく、騎士へ伝わる。伝わってしまう。

「殺して下さい」

――――この手をとって、どうか、私を攫って下さい。



姫君のい、騎士様の鬱、軍師殿の



「そんなところで、物思いだなんて、まったく全然お似合いになりませんよ」

「…………お前は、いつも一言多いな」

視界の逆さに、やぼったい丸眼鏡をかけた、稀代の天才軍師の姿をとらえ、騎士は片頬を吊り上げて見せた。

物見台の、さらに上。その天井部分に、危なげなく仰向けになり、騎士は惰眠を謳歌していた。

軍師は、すこしばかり危なっかしい足取りで、騎士の元にやってくると、怒ったように頬を膨らます。

そうすると、丸みの強い顔がいっそう丸まり、子供のようにさえ見えた。

「私は、正直な感想を言っただけですよ」

「何だ、小言は聞かんぞ」

「いいえ、聞いて頂きますよ。
一月後に控えた、第三姫さまの婚礼の儀のせいで、我々は今、やれ警備がどうだの、やれ警護はどうするの、と大忙しなのですよ。
おわかりですか? まぁ、わかっておられないと思いますが。
わかっていれば、こんなところにいるはず、ありませんもんねぇ。
いくら姫君と貴方が恋仲だったとしても、それを理由に仕事をさぼられては困りますよ、騎士長閣下さま」

「まだ、騎士長には就任していない。正式な就任は、一月後だ。…………相変わらず、手厳しいやつだな」

「決定事項なのですから、問題ありません。…………手厳しいのは、当然です」

くい、と挑むように顎を引いて、軍師は続けた。

その仕草は、とても大人びたもので、軍師のもつ気高さの表われでもあった。

「貴方は、この私が唯一さだめた、主なのですから」

騎士は、無意識に詰めていた息を吐き出すと、そっと身を起こした。

眼下に、美しい町並みが広がる。

騎士が、軍師が、多くの兵士が、この動乱の十年を、隣国との戦争から守りきった、美しい街が。

「…………お前は、どう思っている、軍師」

「我々が、最も力を発揮するのは戦場です。それを今や、やれ警護だ警備だと、奔走させられるのには辟易しますね」

騎士が求めているのは、この言葉でないと知りながら、軍師は飄々と言った。

軍師の描いたとおり、騎士が肩をすくめる。それは、彼が苦笑したときのクセだった。

「そうではない。――――お前は、知っているだろう?」

疑問符をつけながら、けれど、その言葉は確信が込められていた。

見えないと知りながら、軍師は小さく頷いた。

「姫君から、貴方へのの求婚でしょう?」

「………いや、別に求婚はされてないが」

「『私を殺して下さい』なんて、求婚以外のなんですか。戦場に生きる者にとって、これ以上の愛の言葉もありませんよ」

うそぶくついでに、騎士の横に並び、眼下を眺める。

見える景色が同じでも、感じるものは違うと知りながら、それでも騎士は聞かずにはいられなかった。

「俺は、どうすればいいんだ」

苦悩に満ちた、騎士の声。言葉。

いつも、公平で公正で、正解を示す、彼の忠実な臣下は、猫のように瞳を細めただけだった。

「姫君の婚姻は、喜ばれるはずのものだ。隣国との戦争は終わり、外交を始め、疲弊した国もやがて豊かに実るだろう」

――――姫君の、姫君個人の幸せと、ひきかえに。

それを、理解してもなお、

「なぁ、俺は、どうすれば、いいのかな」

戦場で、鬼神と謡われるたった一人の主が、とてもか細い声で、軍師の救いの手を待っている。

迷子の子供のように、途方に暮れた顔をしている主に、軍師はため息をついた。

「で、私に何を言って欲しいのですか?」

「それは、」

「私が、なにを言っても同じでしょう? 貴方の心は、貴方しか定められないのですよ。
…………まったく、貴方はいつもそうだ。剣の腕なら、神がかってさえいるのに、姫君のこととなると、途端にただの人間になってしまう」

まったくもって情けない、と軍師は続けた。

ただの人間で悪いか、とややふて腐れる騎士。

軍師は、目を細め、やれやれしょうがないですねぇ、とこころなし嬉しそうに呟く。

「しょうがないので、私が背を押して上げましょう」

ぽんぽん、と軽く、軍師の細い手が、騎士の肩を叩いた。

のろのろと騎士の視線が、街の上を、滑っていった。

「…………国同士の、問題なんだぞ」

「お生憎様、姫君は第三姫であらせられるので、換えはいくらでも利きます。王には、全部で十七人も娘がいるんですから」

「俺は、騎士だぞ。国に、忠誠を誓った」

「一月後には、晴れて騎士長閣下ですもんね。いやいや、並大抵のことでは成れない地位です。
あ、そういえば、まだ言ってませんでしたね。お祝いの言葉。おめでとう御座います」

「そうだ、騎士長という、立場も任されるんだ」

「おや、権力に何か、執着心でも? それは、知りませんでした。
私なんかは、宰相にならないかという話が来たとき、速攻でお断りしてしまいましたよ。もったいないことしたかなぁ」

「俺は、国を、愛している。だからこそ、隣国との戦争だって耐えてこれた」

「私も、国を愛していますよ。
でも、愛し方って、たったひとつじゃないと思うんですよね。国にいるだけが、愛の証明方法じゃあないですよ」

「…………相手は、姫君だぞ」

「今更ですね。その姫君自身が、お選びになったのが、貴方じゃないですか」

「軍師」

「はいはい」

騎士の視線が、軍師のそれと絡まる。

一本いっぽん、騎士を取り巻き、絡め取っていた、がんじがらめの糸を、丁寧にていねいに剥がしていく。

「お前は、どう、思っているんだ」

頼るためではなく、尊重するために。

騎士は、自らの軍師に問うた。

嘘つきで、飄々とした軍師の本音を、一音たりとも逃さないように、視線に力が篭もる。

ふ、と軍師の瞳が和み、口元にたおやかな笑みが広がる。

「それこそ、聞くだけ無駄というものですよ。

私の答えは、いつだって同じです。あの日、貴方にこの忠誠と魂を捧げてから、ずぅっと。
―――――知っていましたか、我が主?」

軍師が、謡うように問いながら、騎士を誘う。

物見台の天井部を、街並みと逆方向に誘い、軍師は、問の答えを聞かぬまま、城の中庭を手で示した。



「私たちの忠誠も運命も、貴方と共にあるということを」



そこに。

そこには、彼らの傍で、戦火を駆け抜けた、大勢の部下達がいた。

「たいちょー、なにしてんですかぁ」「こんなとこで、油売ってる場合じゃねぇですよ!」「騎士なら、堂々として下さいよ」
「隊長、俺は、一生あんたについていくぜぇー!」「ここで黙ってるなんて男じゃないぞぉ!」
「まったくっ、騎士ってのは、女心も分かんない連中ばっかかい!?」「隊長!」「騎士どの!」
「はやく、はやく、時間は無限じゃないんですよ」「迅速かつ、的確に動きましょう」「軍師どの、はやく策を言ってくれよー」
「そだそだ、忙しくなるぞぉ」「警護や警備より、よっぽど楽しそうだよねぇ」「姫様、きっと、お待ちデスよぉ」
「男なら、ばしっと決めてくれなきゃ!」「あはは、僕らきっと国家反逆罪だね★」「がははは、それが、どげんした!」「そうよそうよー!」
「恋人同士を引き裂く国家なんてくそくらえー!」「さぁ、隊長、デートの時間ですよ」「あんな、熱烈な愛の告白、断ったら一生後悔しますよ!」「俺たちがね!」「そうそ、あんたにゃ、幸せになってもらわんとなぁ」「まだ若いし」「ほらほら、隊長!」

圧倒。

この感覚は、そう言えば伝わるのだろうか?

「…………お前等」

様々な奴がいる。総じて問題を起こす奴等ばかりだが、騎士にとっては、かけがえのない仲間と呼べる存在達。

十数人の少人数でも、彼らは、心の底から自分たちを率い、戦陣を切った騎士を、慕い、彼のために力を尽くそうと、集まってきたのだ。

傍らを見る。

穏やかな風貌をした軍師は、恭しく膝を折ると、胸の正面で右手を左手でくるみ、頭を垂れる、正式な礼をとった。

「さぁ、ご命令下さい、我が主」

軍師に習い、眼下の者達も、礼をとる。

そして、いっせいに唱和した。

「「「「ご命令を、我らが主」」」」

息を、吸い込む。

春の香りを若干ふくませ始めた、冷たい空気が、騎士の肺を冷やし、覚悟を強く固めていく。

息を、止めた。

次に吐き出されたとき、吐息は言葉になった。

命令に歓喜した、仲間達の声が、高く空に舞い上がった。


  


あとがき
 
deep blue sky の五月雨様のHPから1000hitフリー小説です〜VV
 1000hitおめでとうございます〜。うちの3000hit奪ったので仕返しです。
 これからも通わせて頂きます☆
06.10.19 天神あきな

 deep blue skyは2007.5月に閉鎖されました。